日本の支配エリートたちは、おおむねそれに該当するアメリカ人のような行動はとらない。アメリカのエリートは政治的集団で、行政府によって(政治的に)任命された者、議会スタッフらによって構成される(両者がエリートであることは、他の先進世界ではみられないアメリカ特有の現象だ)。しかし、日本の支配的集団は官僚であり、官僚特有の行動をとる。 ドイツの偉大な社会学者、マックス・ウェーバーは、官僚制が普遍的な現象であることをつきとめ、その役割は自らの経験を準則化し、その行動規範に自らを織り込むことだと定義した。今日の日本の官僚の行動規範、とくに大きな危機を前にした場合のそれは、行動規範形成期における二つの成功と一つの失敗によって導かれている。 最初の成功は、成功とはいっても一九四五年以後の最も深刻な社会的な病に処置を施すことではなかった。ここでいう病とは、農村の大多数の人々が失業するか、あるいは(老齢や障害などで)雇用不能な状態にあったことだ。今日、労働力に占める農民の比率は、日米双方ともわずかに2%か3%を超える程度である。翻って1950年当時、アメリカでは人口の20%を超える人々が農民だったが、日本ではほぼ60%の人々が土地を耕し、かろうじて最低限の生活を送る収入を得ていた。 1950年代初期の日本の農業は、どうしようもないほど非生産的だった。しかし官僚たちは、農業部門の問題への対策を講じよと政府に求める圧力のすべてをうまくかわしてみせた。官僚たちは「仰せのとおり、この膨大かつまったくもって非生産的な農業部門の過剰人口(労働力)が経済発展の大いなる足かせ」であることを事実上認め、さらに「日本の都市生活者が生活必需品を購入するに十分な所得を得ていないこのときに、何も生み出せない農家に補助金を与えるのは、日本の消費者をひどく不利な状況に追い込む」と結論した。 だが一方で、農民が土地を離れること、あるいはより生産的になること(これは多くの場合、とうもろこしや大豆のような穀物を新たに栽培するか、米作をやめて鶏や家畜などの畜産業へ移行することを意味した)を奨励すれば、深刻な社会的混乱を引き起こす危険があった。こうして官僚たちは、状況に対する唯一理性的な行動は何もしないことだと考え、実際、何も手を打たなかった。 経済的にみれば、日本の農業政策は壊滅的だったし、農業という観点からみれば、日本の農民の生活レベルは今でも先進諸国のなかで最も低い。日本は、生き残った農家には、アメリカを含む他の先進諸国と同様、可能な限りの補助金を与えているが、いかなる主要な先進諸国と比べても、より多くの食糧を輸入に依存している点で、この国は異なっている。しかし社会的にみれば、官僚が何もしなかったことは大きな成功だった。結果的には、日本は何ら社会的混乱を伴うことなく、他の先進諸国以上の農業人口をバランスよく都市生活者として吸収できたのだ。 日本の官僚たちの二番目の大きな成功も、考え抜いた揚げ句の無作為だった。彼らは小売流通の問題に対応しないことを決めた。1950年代末と1960年代初めの日本の流通システムは、先進世界のなかで最も時代遅れでコスト高、なおかつ非効率的なしろもので、19世紀型というよりも、むしろ18世紀型のシステムだった。日本の流通システムを担っていたのは、数千もの「パパ・ママショップ(夫婦経営の店)」で、たとえるなら、これらは壁に開いた小さな穴のようなもので、膨大なコストとそこに至るまでのひどく高いマージンゆえに、零細商店は食べていくのがやっとだった。エコノミストや財界指導者たちは、効率的な流通システムを整備するまでは、健全な近代経済を手にできないと警告したものだ。 だが、官僚たちは手をさしのべることを拒否した。逆に官僚は、スーパーマーケットやディスカウント・ストアのような近代的小売店の台頭を鈍化させるための規制を次から次へと制定した。 経済的には、既存の小売りシステムが大きな足手まといであることを官僚たちも否定しなかったが、一方で「これは日本社会の安全弁でもある」と考えていた。「失業者、あるいは五十五歳になってわずか数カ月分の退職手当で引退した人々も、親戚がやっているパパ・ママショップで働くことで最低限の生活を賄うだけの収入を手にできる」と。結局のところ、当時の日本には失業保険も年金もほとんどなかった。 それから四十年後、小売流通は社会的にも経済的にも問題ではなくなった。今もパパ・ママショップは存在するが、そのほとんど、それも都市部の零細商店はフランチャイズ店として新たな巨大小売りチェーンの翼下に入っている。暗くて古い店舗はもうない。今では小さな小売店は清潔で明るく、一元管理の下に置かれ、コンピューター化されている。今日の日本は世界で最も効率的で費用対効果の高い流通システムを手にしているのかもしれず、パパ・ママショップも今やそれなりの収益をあげている。 日本の官僚の行動規範を形づくった第三の経験も、これまた行動を起こさぬことを教えているが、最初の二つとは違い大失敗だった。実際、この失敗は、対応を先送りし延期することの英知を無視して、最初の二つの事例から学んだ教訓に背いた結果だった。 1980年代初頭、日本は、世界のほとんどの諸国であればリセッションなどとはみなされない、経済・雇用成長の穏やかな減速局面を迎えた。しかしこの成長の減速は、ドルと円の相場の管理固定制度が解体され、輸出依存国、日本がパニックに陥ったのと時を同じくしていた。 その結果生じた大衆の圧力に官僚たちは屈服し、欧米スタイルで行動するようになった。彼らは、景気を刺激しようと膨大な金額の資産を投入したが、災難はさらに続いた。日本政府は他の多くの先進諸国と比べてもさらに大きな財政赤字を計上し始めた。株式市場はブームに沸き返り、株価収益率は五十倍以上にまで押し上げられた。都市部の地価はさらに大きく上昇した。健全な借り手不足で資金を持て余した銀行は、憑かれたように投機家に資金を融通した。もちろんバブルははじけ(現在の金融危機はその遺産にほかならないが)、バブル崩壊とともに銀行、保険会社、その他の金融機関は、株式市場と不動産市場での損失と不良債権に悩まされる羽目になった。 その後の事態も、決定を先送りすることが行動を起こすよりも賢明であるという官僚の確信をさらに強めるものだった。だが、一部にはワシントンからの圧力もあって、この二年の間に日本の政治家と世論は、他の欧米諸国にもまして大規模な資金を経済に注入するように圧力をかけ、官僚の確信に反して、資金が投入されたが、これらはまったく役に立たなかった。